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熊本の旅と歴史
熊本の旅        熊本市

水前寺成趣園
すいぜんじじょうじゅえん
熊本県熊本市水前寺公園8ー1
Tel 096-383-0074


 水前寺成趣園は細川御歴代を祀る出水神社の敷地内に、おおよそ360年前に造られた庭園です。寛永9年(1632)、肥後の領主となった細川忠利によって築造が始められ、光尚を経て孫の綱利のときに桃山式池泉回遊庭園が完成しました。
 年中絶えることのない阿蘇の伏流水が湧きだす池を中心に、東海道五十三次になぞらえたといわれる芝山や泉水に浮かぶ小島、富士山に見立てられた築山など美しい庭が広がっています。池の中には鯉が優雅に泳いでおり、エサをあげることもできます。
 全国に知れ渡っているこの庭園は、もともと「お茶屋」と呼ばれた細川藩主の休息所でした。明治の中期熊本に滞在した夏目漱石も、たびたびここを訪れ、「しめ縄や春の水湧く水前寺」の一句を残しています。


古今伝授の間
こきんでんじゅのま
 水前寺成趣園内に建つ、茅葺きの風雅な茶室です。細川藤孝(幽斉)が慶長5年(1600)、後陽成(ごようぜい)天皇の弟宮智仁親王に「古今和歌集」の秘伝を伝えたところから、この名がついたといわれています。昭和39年(1964)には熊本県の重要文化財 に指定されました。
 この建物は、もとは京都御所にあり、長岡茶室と呼ばれていましたが、明治になって細川家に返され、大正元年(1912)現在地に再建されました。杉戸の「雲竜」は狩野永徳、襖の「竹林の七賢」は海北友松の作と伝えられています。  
 古今和歌集は紀貫之ら4人の選者による、日本初の勅撰和歌集です。平安時代、和歌を研究しその解釈の奥義を確立した藤原定家以来、この奥義は「古今伝授」として代々その子孫に伝えられていました。戦国時代、古今伝授を受け継いだ三条西実枝(さねき)は、細川藤孝(幽斎)に伝授を託しました。
 関ヶ原の合戦の年、智仁親王に伝授がなされました。藤孝(幽斎)の当時の居城、京都・丹後の田辺城は石田方の軍勢に包囲され、平安時代以来の正当な古今伝授そのものが途絶える危機を迎えていました。
 天皇御自らの勅諚が発せられ、回避されたのです。この一件で古今伝授と細川藤孝の名が公家や大名に知られるようになったといわれています。智仁親王は桂宮家の初代で、「桂離宮」を造りました。

 園内には西日本随一の名舞台といわれた出水神社能楽殿があります。出水神社の創建と同時に建てられました。御祭神である細川歴代の方たちは武道・和歌・茶道・能楽など文化のたしなみが深かったようです。昭和40年(1965)に火災で焼失しましたが、昭和天皇在位60年を記念して以前の場所に再建されました。
出水神社能楽殿

 細川忠利は細川忠興(三斎)の三男です。母は明智光秀の娘で悲劇の女性、玉(ガラシャ夫人) です。加藤忠広の改易にともない豊前(小倉城)から肥後54万石に移封されました。柳生新陰流や二階堂流平法を修得した剣の達人ともいわれています。宮本武蔵を格別の待遇で招聘しました。
細川忠利銅像

 稲荷神社は文化6年(1809)、細川家10代斉茲が京都伏見より勧請した神社です。水前寺公園の出水神社の横にあります。
稲荷神社

 出水神社は水前寺成趣園のにあって、明治11年(1878)に創建された神社です。旧藩士の組織する甘とう会が中心になりました。藩祖細川藤孝、忠興、忠利、重賢を祀っています。後年、他の歴代藩主とガラシャ夫人玉(忠興室)も併せ祀られました。
出水神社


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