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宮崎の旅と歴史
宮崎の旅        日南市

飫肥城
おびじょう
宮崎県日南市飫肥10ー1


 飫肥城大手門です。明治2年(1869)当主伊東氏が大手門前の豫章館に移り、明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊されてしまいました。
飫肥城大手門
 この大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。釘を一切使用せず作られているそうです。
 復元に際しては当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼して造ったそうです。復元工事中に、礎石に正徳3年(1713)の碑文が発見されています。
 復元された大手門の高さは12.3mだそうです。NHK朝の連続テレビ小説「わかば」(第71作目)では高原若葉と藤倉雅也が谷準一と会ったロケ地になっていました。
 飫肥城は飫肥の町の北側、酒谷川と山川を臨む海抜60mほどの丘に建っています。康安2年(1362)、砦程度のここに反乱兵士が立てこもりこの地方の豪族土持頼宣が平定したそうです。
 鎌倉時代、工藤祐経が源頼朝より日向の地頭職に任ぜられました。それ以来日向の国主として支配してきました。6代目の伊東祐持は足利尊氏より都於郡に三百町の領地をもらい都於郡城を築いたのでした。
 長禄2年(1458)、薩摩の島津氏は伊東氏の南下に備え飫肥城を築き、志布志城の新納忠統を守備に当らせました。文明16年(1484)、伊東祐国が都於郡城から飫肥に出陣し攻略しました。
 しかしすぐに城は島津氏に奪回されました。伊東祐国は何回も飫肥城を攻めましたが攻略できず逆に戦死してしまいました。
 伊東祐国の子尹祐と島津忠国は和睦しましたが尹祐の子義祐は飫肥城を攻め島津氏との間で奪回が繰り返されました。永禄11年には義祐の次男祐兵(すけたけ)が城主になっています。
 島津の家督を継いだ義久が反撃を開始しました。元亀3年(1572)の木崎原の合戦で勝利を収め高原城を奪い、野尻城を手中にしました。天正5年(1577)、都於郡城をも陥れ、伊東氏は豊後に逃れたのでした。
飫肥城歴史資料館
 天正10年(1582)に本能寺の変が起き信長に代わり羽柴秀吉の天下になりつつありました。天正15年(1587)、九州討伐で島津氏が降伏し、翌年南九州の国割が行なわれ伊東祐兵は秀吉より再び飫肥の地を拝領したのでした。
飫肥城歴史資料館

飫肥城の旧本丸跡
  城下の形成は、祐兵が5万1千石で入城して本格的な建設がなされました。今でも、江戸時代初期の絵図に描かれた街路がそのまま使用されているのです。
飫肥城旧本丸跡
  伊東祐兵以後、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治め続けたのです。飫肥城の旧本丸跡は元禄6年(1693)本丸ができるまで藩主の御殿でした。地震による地割れで移転されたそうです。
飫肥城旧本丸跡

松尾の丸
 松尾の丸は江戸時代初期の書院造りの御殿として、時代考証のうえ昭和54年(1979)に建築されました。飫肥城跡にある城の建物はこの松尾の丸と大手門だけです。
松尾の丸
  松尾の丸の中に展示されている川御座船(かわござぶね)と呼ばれる船の模型です。御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵などの部屋があります。
松尾の丸
 建物は綿密な時代考証を重ねて当時の建物を検証し江戸時代初期の書院造りの御殿を精巧に再現しています。湯殿は、国宝である西本願寺の飛雲閣のものを模した柿(こけら)葺(ふ)き総桧(ひのき)造りです。
松尾の丸

飫肥の四半的場(しはんまとば)
 四半的射は飫肥に伝わる半弓で、射場から的まで4間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、すべて四半であることから四半的とよばれています。
 永禄11年(1568)、伊東義祐は島津忠親のたてこもる飫肥城を攻撃しました。この戦いの際に馬引、人足、附近の農民が竹作りの即製の半弓を持って参戦し伊東方の勝利に大きく貢献したそうです。
 その後伊東藩内においては、この合戦の功績により一般、農民に娯楽用として弓矢を持つことを許可するようになったと言い伝えられているのです。
 NHK朝の連続テレビ小説「わかば」では高原若葉と藤倉雅也が矢を放った体験場として登場しました。


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