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佐賀の旅と歴史
佐賀の旅        佐賀市

佐賀城
さがじょう
佐賀県佐賀市城内1
Tel 0952-22-0555


 佐賀城は佐賀藩35万7千石の藩主鍋島氏の居城で佐嘉城、沈み城などとよばれました。沈み城とは城が樹木の中に沈み込んで見えることや、幾重にも巡らした外堀を、攻撃にあった時は主要部以外は水没させる仕組みになっていたことから名付けられたそうです。
 佐賀城のもとになった城は龍造寺氏が居城としていた村中城でした。九州北部に勢力を構えていた龍造寺隆信は天正12年(1584)、島津・有馬連合軍に敗れ戦死してしまいました。それ以後龍造寺家臣であった鍋島直茂が実権を握り、佐賀県の大半を領有し慶長7年(1602)本丸の改修に着手しました。
 慶長16年(1611)、2代藩主鍋島勝茂が直茂の縄張に従って完成させました。5層の天守閣の下には幅80mにも及ぶ広大な内堀が造られました。
 享保11年(1726)、佐賀城は大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半が焼失してしまいました。天保6年(1835)の火災では政務を行なっていた二の丸が焼失したため本丸を再建しそこで政務を行ないました。しかし天守は享保の火災以後再建されませんでした。
 明治7年(1874)、江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に占拠され、戦闘の際に建造物の大半を失なってしまいました。唯一焼失を免れた鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っています。
 鯱の門は二重二階の櫓門で一重二階の続櫓と石垣の上で接続しています。屋根は本瓦葺き入母屋造りで、棟の両端に青銅製の鯱が載っています。この城門と櫓は国の重要文化財に指定されています。


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