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茨城の旅と歴史
茨城の旅      水戸市

弘道館
こうどうかん
茨城県水戸市三の丸1丁目6ー29
Tel 029-231-4725


 弘道館は天保12年(1841)に水戸9代藩主斉昭が藤田東湖や会沢正志斎などの学者の意見を聞いて、多くの困難な障害をのりこえ創設した水戸学修練のための藩校です。
 藩士に文武両道の修練を積ませようと武芸一般はもとより、文学・儒学・医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、いわば総合大学というべきものでした。
 弘道館には正庁・至善堂・文館・武館(撃剣館・槍術館・柔術館)軍機局・天文・算数・地図等の館・医学館などがあり、広い調練場や馬場を備えていました。
 当時の藩校としては国内最大規模で、敷地は5万4千坪と萩の明倫館の3倍という広さでした。藩士の子弟は15歳から入学出来ましたが、「学問に終わりなし」という斉昭の方針で、「卒業」という制度はなかったそうです。
 弘道館建学の方針を示す「弘道館記」の内容や学校教育の理念は天下で有名になりました。これは藤田東湖が草案を考え、斉昭の名で発表されたものです。
 第15代の将軍となった徳川慶喜も父斉昭の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。慶喜が大政奉還したのは、ここで幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想が根底にあったためであると推察されます。
 天狗党の乱鎮圧後、水戸藩は諸生党が実権を握りましたが、戊辰戦争が勃発し、朝廷から追討令が出され、本圀寺党や天狗党の残党など改革派が台頭してきます。諸生党は脱藩して会津戦争・北越戦争などに参戦し、会津藩が降伏すると、水戸に戻りました。諸生党は改革派の家老・山野辺らが水戸城の防備を固めていたため、入城できず、三の丸にあった弘道館を占拠しました。
 両派による激しい銃撃戦の後、諸生党は水戸を去りました。この戦闘で、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失。城内の建物のみならず、多くの貴重な蔵書も焼失しました。
 明治5年(1872)弘道館は閉鎖されました。明治8年(1875)太政官布告によりここは公園となり、建物は明治15年(1882)まで県庁として使われました。昭和27年(1952)弘道館は国の特別史跡に指定されました。

弘道館正門
 弘道館正門は水戸城三ノ丸にあり、大手橋に向かい、正庁の正面にある門です。棧瓦葺きの4脚門で、左右に瓦葺きの漆喰塗りの土塀が続いています。
弘道館正門
 明治元年(1868)に起こった弘道館戦争で、水戸藩内の保守派の諸生党と改革派との戦いで正門、正庁、至善堂以外は焼失しました。正門には当時の弾痕が残っています。国の重要文化財に指定されています。
弘道館正門
 
弘道館正庁
 弘道館正庁(学校御殿)は戦災を免れ、国の重要文化財に指定されています。正庁の間は藩主が臨席し、文武の大試験、その他の儀式などに用いられた第一の場所です。正庁の鴨居には、弘道館戦争の内戦時の弾痕が生々しく残っています。
弘道館正庁
 正席(一の間)は24畳で床の間、棚、書院があります。二の間は15畳、三の間は12畳、玄関の間は24畳で床の間があります。・溜(たまり)の間は12畳と6畳です。各部屋の周りには広い畳廊下があります。
弘道館正庁

至善堂
 正庁から広い畳廊下を通って奥に入ると、藩主の休息所であり、諸公子の勉学所であった至善堂があります。至善堂の名は、斉昭が中国の経書「大学」からとって命名したものです。奥の御座の間をはじめ4室あります。
至善堂
 5代将軍となった徳川慶喜(七郎麿)、鳥取の池田慶徳(五郎麿)、川越の松平直侯(八郎麿)、岡山の池田茂政(九郎麿)、石見浜田の松平文武聴(十郎麿)など、みな水戸城から大手橋を渡って弘道館へ通い、勉学したそうです。。
至善堂
 特に至善堂は明治元年(1868)に最後の将軍となった徳川慶喜が謹慎された部屋として有名です。慶喜は、慶應4年(1867)江戸無血開城のあと、故郷の水戸に戻りここで謹慎しました。国の重要文化財に指定されています。

孔子廟
こうしびょう
 斉昭は弘道館を開設するにあたって、その敷地内に、精神のより所としての鹿島神社と孔子廟をまつり、学校の聖域としました。安政4年(1857)孔子廟が弘道館構内に建立され、孔子神社を廟中に安置してその霊を祀りました。
孔子廟
 文武周公の平天下治民の教えが、孔子によって広まりました。その徳を弘道館では敬慕し、その教義を採り入れたのです。
 孔子廟の前に楷の木があります。楷の木はうるし科の植物で、俗に孔子木と呼ばれています。孔子の墓にある聖木として有名です。
孔子廟


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