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秋田の旅と歴史
秋田の旅     秋田市

三浦家住宅
みうらけじゅうたく
秋田県秋田市金足黒川字黒川178


 三浦家住宅は主屋1棟、米蔵1棟、文庫蔵1棟、表門1棟、鎮守社1棟が平成18年(2006)国の重要文化財に指定されました。土間の広さは東北最大級といわれています。平成12年(2000)保存修復工事が始まり、4年後完成しています。
 三浦家は中世の豪族三浦氏を祖とし、永禄年間には浦城城主(八郎潟町)となりました。後に金足黒川に居住し、藩政時代には肝煎を代々勤めた郷士の家柄です。
 主屋は江戸時代の文久元年(1861)に建てられたもので、茅葺で正面が入母屋風になっています。主屋の両端が前面に突き出す「両中門造り」です。馬屋と座敷を突き出しています。幕末期の農家として東北地方で最大の平面積を誇っています。
三浦家主屋
 曲がりの入母屋破風は大型で、家紋の褄飾りを揚げています。当初から「両中門造り」で建てられていました。近隣の奈良家をはじめとする、江戸時代における秋田地方大民家の発達の原点を示しています。
三浦家主屋
 文庫蔵は明治35年(1902)に建てられました。内部は欅の大梁をはじめとする良質の材料を使用しています。外部は黒漆喰塗りなど手間がかかる仕上げをしています。秋田地方の黒漆喰塗りは、面を白抜きする高度な技法で、現在、当時の技術を再現するのは極めて困難です。
三浦家文庫蔵
 軒の出の深い大きな屋根やそれを支える金具類、細部にわたって丁度に塗り上げられた大扉、特注製の三浦家の家紋が入った瓦など、他の建物に比べお金をかけています。
三浦家文庫蔵
 米蔵は明治24年(1891)に建てられました。文庫蔵は外壁の上部が黒漆喰でしたが、米蔵は素地のままの仕上げです。内部も実用本位で考えられています。内部の板壁が柱の面と同一になっていて、米俵が積み易いような工夫も見られます。
三浦家米蔵
  大きな米蔵で、昭和初期頃は、高さ6m余りまで米俵が積まれていたそうです。厚さ12Cmの板壁を柱にはさみ込み、柱と壁板を通り貫で緊結しています。秋田地方の土蔵造りの方法で、特に厚壁板や長大な牛梁などの工法、材料の豪快さが際立っています。
三浦家米蔵
 三浦家住宅の表門は主屋と同じ時の文久元年(1861)に建てられたものと考えられています。総ケヤキ造りの薬医門で、重厚な構えです。昔は「笠門」と呼ばれていました。これは秋田藩の武家階級の格式とされています。
三浦家表門
 秋田県の農家住宅でこのような門を持つのはこの三浦家住宅と大仙市の池田家住宅ぐらいで、ほとんどは木戸門と呼ばれる木柱を両脇に建てる形式です。三浦家にたいしかなりの格式が与えられていたことを伺わせます。
三浦家表門
 大正3年(1914)黒川5号井に原油が自噴しました。羽後黒川郵便局はそれを機に三浦家の一角に大正7年(1918)に開局されました。その後60年間、大切な通信機関として機能しました。初代局長は、14代三浦悦郎でした。
羽後黒川郵便局跡


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