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山形の旅と歴史
岩手県の旅      西磐井郡平泉町

中尊寺
ちゅうそんじ
岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202
Tel 0191-46-2211


 中尊寺は嘉祥3年(850)に慈覚大師が開創した天台宗の名刹で、天台宗東北大本山です。建立時は関山弘台寿院といいましたが、貞観元年(855)清和天皇より中尊寺の号を賜りました。
 長治2年(1105)堀川天皇の勅により、藤原氏の初代清衡が堂宇の再建に着手しました。21年の歳月をかけ天治3年(1126)堂塔40、僧坊300を越える大寺院を完成しました。
 隆盛を極めた中尊寺でしたが、藤原氏が滅亡後はすっかり衰え、建武4年(1337)の野火火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなってしまいました。
 その後、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っています。金色堂はじめ讚衡蔵には3000余点の国宝・重要文化財を伝えています。東日本随一の平安美術の宝庫になっています。
 藤原清衡は、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生でした。
月見坂
 戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和な社会をつくりたい、という願いをこめて中尊寺を建立したのです。

 初代藤原清衡の父親は、「前九年の役」で滅亡した妻の実家である安倍氏に味方したため処刑されました。そして清衡自身も刑死の運命にあったのです。
 母親が、「前九年の役」で功労のあった清原氏へ嫁ぐことによって清衡の命は助かりました。永保3年から寛治元年(1083〜87)に清原氏同士の抗争である後三年合戦がありました。
 頼義の子である源義家も加わった複雑な戦でした。最後の勝利したのは清衡と義家でした。清原の勢威を背負い、旧藤原・安倍の郎党をも引き入れ、藤原四代の基礎が築かれたのです。



 月見坂を登りつめた辺りに、別名愛宕堂(あたごどう)とも呼ばれている弁慶堂があります。文政9年(1826)に再建されています。
辨慶堂
 本尊は愛宕尊で堂内には立ったまま大往生をとげたと伝えられる弁慶衣川立ち往生の等身木像を安置しています。
辨慶堂
 源義経の木像も同じく安置されているほか、国宝に指定されている、勤行のときに鳴らす仏具「金銅剛孔雀文磬(けい)」などが所蔵されています。
辨慶堂
 参道入口広場の弁慶松といわれる松の大木の下に高さ60cmほどの五輪塔があります。これが弁慶の墓といわれています。
辨慶堂

 地蔵堂は本堂の隣にあり、後ろは北上川を眺める事ができます。おみくじや御札がたくさん飾られています。
 ききもせず束稲やまのさくら花
  よし野のほかにかかるべしとは
 国文学者の尾山篤二郎揮毫の西行の歌碑があります。
地蔵堂

 中尊寺本堂は明治42年(1909)再建された建物です。中尊寺一山の中心となる建物で、ご本尊は阿弥陀如来です。早朝のお勤めはこの本堂で行われています。 
中尊寺本堂
 堂内には、およそ1200年燈り続ける「不滅の法燈」が総本山の比叡山延暦寺より分火されて、護持しています。多くの場合、法要儀式もこの本堂で行われています。
中尊寺本堂

 不動堂は本堂から金色堂へ向かう途中にあります。ここでは交通安全・厄除け・家内安全・商売繁盛や、受験合格などの祈願が出来ます。
不動堂
 本尊の不動明王は、宇宙の本体・大日如来の命を受け、人間の過ちを直し、苦悩を取り除いてくれる仏です。毎月の縁日・28日に護摩が焚かれます。
不動堂

 薬師堂は藤原清衡が中尊寺境内に堂塔40あまり建てたうちの一つでした。別の場所に建てられ、明暦3年(1657)に現在地に建立されたそうです。ここでは月に一度火を焚いて祈祷するそうです。護摩符に願いを書いて置いて預けますとそれを燃やして祈祷してくれます。
薬師堂
 薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心に盛んだったそうです。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰され、その効能があるのが薬師如来であり、この薬師堂でした。
薬師堂

 大日堂は初代清衡が創建した三重塔跡地に正徳2年(1711)再建されたものです。三重塔の本尊であった大日如来を継承しているお堂です。
大日堂

 中尊寺金色堂は藤原清衡が天仁2年(1109)ごろから着手して15年の歳月をかけ天治元年(1124)に完成させました。単層、宝形造りの阿弥陀堂で、堂の内外に漆を塗り、金箔を重ねた金色の建物です。
中尊寺金色堂
 内部の装飾も華麗です。柱や須弥壇、長押し(なげし)、桁(けた)などには白く光る夜光貝の〈らでん〉をちりばめ、要所には透かし彫りの金具・漆の蒔絵と、お堂というより工芸美術品のようです。
中尊寺金色堂
 建武4年(1337)の大火の時もこの金色堂だけが被害に遭わず中尊寺創建当初の唯一の遺構になっています。壇上には本尊阿弥陀如来を中心に、黄金に輝く11体の仏像が安置されています。
中尊寺金色堂
 金色堂の中央の須弥壇には、初代清衡の遺骸、向かって左の壇に2代基衡、右の壇に3代秀衡の遺骸が安置されていて、秀衡の遺骸の傍らに、子泰衡の首級が納められています。
中尊寺金色堂
 高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)と白水阿弥陀堂(福島県いわき市)と共に東北3大阿弥陀堂の一つに数え上げられていて、当時の地方へ波及した阿弥陀堂建築を代表する存在です。中尊寺金色堂は平成9年(1997)国宝に指定されています。
中尊寺金色堂

 経蔵は中尊寺の境内にある間口3間、屋根は宝形、金属板葺き建物です。当時の文化を伝える数少ない建物の一つで、彩色などは剥げ落ち、平屋建てにするなどの改修がされています。
中尊寺経蔵
 現在の建物は平安時代の古材を使って鎌倉時代に造られたものと推察されます。創建時の経蔵は2階瓦葺と「供養願文」に記されています。建武4年(1337)の火災で上層部が焼失したようです。
中尊寺経蔵
 本尊は騎師文殊菩薩像です。経棚には国宝の紺紙金字一切経が残されていました。今は讃衡蔵に保管されています。経蔵は明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。
中尊寺経蔵

 芭蕉
 「五月雨の降り残してや光堂」

 金色堂の脇に建つ芭蕉の碑です。
芭蕉句碑
 あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないかという意味です。
芭蕉像

 中尊寺旧覆堂は金色堂を風雪から護るために正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂です。古くは「鞘堂(さやどう)」と呼ばれていました。
中尊寺旧覆堂
 近年の調査では、金色堂が建立されてから50年ほどしてから簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期に現在の形になったものと考えられています。
中尊寺旧覆堂
 芭蕉をはじめ多くの文人や参拝客が堂内に入り薄明かりの中に金色堂を拝観したのです。昭和38年(1963)に新しい覆堂が建設されたので少し離れた現在の所に移築されました。旧覆堂は大正6年(1917)国の重要文化財に指定されています。
中尊寺旧覆堂

 金色堂のさらに奥に白山神社があります。嘉永6年(1853)に再建された建物です。中尊寺鎮守の1つで中尊寺一山の僧侶によって神寺能(じんじのう)が行われています。
白山神社
 嘉祥3年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山神社から分霊し、大師自ら十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号したそうです。
白山神社
 白山神社境内には入母屋造りの能舞台と楽屋があります。毎年5月4、5日に古実式三番(こじつしきさんば)と御神事能(おじんじのう)が奉納されています。
白山神社
 能画家松野奏風による松が優雅に描かれています。昭和22年(1947)描かれたということです。
白山神社

 中尊寺の阿弥陀堂は金色堂だけだと思っていたのですが別に阿弥陀堂もあります。竹林を背にして、宝形造りの屋根が見事です。本尊は阿弥陀如来座像です。
阿弥陀堂

 当初は二階造りの鐘楼でしたが建武4年(1337)の火災で焼失しました。梵鐘は康永2年(1343)の鋳造です。銘には中尊寺の創建や火災のことまで記してあるそうです。撞座の摩耗がはなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどないそうです。
鐘楼


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