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宮城の旅と歴史
宮城の旅    柴田郡柴田町

船岡城址公園
ふなおかじょうしこうえん
宮城県柴田郡柴田町大字船岡館山
Tel 0224-55-2123


 船岡の町並みを見下ろす館山(136m)の頂上にあり白石川をへだてて韮神山に相対していて、東街道を押さえる要所に位置します。前九年の役では源頼義、義家の陣所になったところです。
 戦国時代、伊達稙宗の部下の四保定朝(しのうさだとも)が城の規模を拡張しました。定朝の子、宗義の時に柴田と改名し天文年間から文禄2年(1593)まで居城にしました。寛文11年(1671)原田甲斐による伊達騒動の舞台でもあります。園内には山本周五郎の小説「樅の木は残った」のモデルとなった樅の木もあります。。
 寛文10年、保守派の伊達安芸宗重らは幼い藩主伊達綱村を擁する伊達一門筆頭の伊達兵部宗勝一派が悪政を行っていると幕府に訴えました。幕府から老中板倉重矩が派遣されて、取り調べる事態になりました。伊達兵部派の家老原田甲斐宗輔は取り調べを終えて控え室に戻ってから伊達安芸を斬ったのです。
 原田甲斐も騒ぎに気づいて駆けつけた酒井家の家臣に斬られ、居合わせた関係者のほとんどが死亡して問題の追求が不可能になりました。この結果、原田甲斐の家は断絶とされその息子達も死罪、生き残った伊達兵部は土佐に流されますが、仙台藩62万石にはお咎めなしとなります。これが世に有名な「伊達騒動」です。
  原田氏改易の後は再び柴田氏が城主となり明治維新まで続きました。戊辰戦争の時、白鳥を神として崇めていたこの地で官軍の兵が白鳥を射殺しました。それを見た柴田氏家臣は大いに怒り、その兵を射殺するという事件も起こっています。官軍はこの件で仙台藩を責め、責任を感じた柴田氏は切腹して果てたそうです。
 明治2年(1869)の火災で建物は一切なくなりました。その後15ヘクタールの広い公園として整備されました。現在園内には明治40年(1907)に植えられた老木80本を含む総本数1000本の桜が咲き乱れます。「さくら名所100選」に県内でただ1ヶ所選ばれています。


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